Starry, Starry, Night

 満天の夜空に瞬く星達は深紫のベルベッドに散りばめた無数のダイアモンドのように輝いていた。
プールサイドには二つの白いデッキチェアが丸いテーブルを取り囲み、乳白色の地面に影を落としていた。夜風が草葉の隙間をかろやかに通り抜けるプールサイドは水の揺らめきから放たれるきらめきに包まれていて、重なる木の葉の音に聞き入っているフレイはしっとりと濡れた紅い髪から滴る水滴をプールに帰していた。
 水に揺れる上半身を起こしながら炭酸水が注がれたグラスを手にし、フレイは軽く溜息をついた。
 遅くなるから先に夕食を食べろ、と言うイザークにフレイはどうしても一緒に食べると答えた通信を交わしたのが数時間前。空腹感が苛立ちに拍車をかけ、先に夕食を取ればよかった、と思いフレイは濡れた手から滑り落ちそうになるグラスを支え直した。薄い黄金色の液体から透き通る夜空はひかえめに光り輝いている。泳ぎは空腹感を煽るというのに、フレイは無償に水に潜りたかった。暑さが満たされない不満を滾らせているのかもしれない。家の中で待つよりも水に潜るだけで少しは気が紛れると思った。
 グラスに唇が触れ冷えた炭酸水が無数の泡で喉を鳴らし、フレイは淡く甘酸っぱい味を舌で転がす。林檎の果汁が少しだけはいった炭酸水をグラス半分ほど飲み干すとフレイは息をついた。
 今晩何度目の溜息だろう。今夜は林檎味の溜息。いつかは葡萄味であり、檸檬味でもあった。フルーティーなくちづけを待つ溜息は甘酸っぱく、切なく、時に塩辛い。
 今夜の溜息は淡い甘さ加減が酸味を抑えきれず、空腹をエスカレートさせる。
 そろそろイザークが帰ってくる頃だ、と言い聞かせもう何時間経つのかフレイは判らなくなっていた。
 プールサイドについていた両肘が痺れたのかグラスを銀製のトレイに置いたフレイは水に潜った。
 飛沫が上がり、トレイの上に敷いてある蒼白いナプキンは水滴でねずみ色に染まった。水に潜る体を仰向けに起こし、水面に出た両腕を伸ばした。昼間温かった水は今丁度よく冷えていた。心地よい冷たさにフレイは蒼白い月を見上げながら静かに泳ぎ始める。紅い髪は咲き誇る牡丹の花びらのように、キラキラと水面に広がる。さらさらと広がる紅い髪は水のうねりに合わせながら柔らかくくねっている。
 肌にピッタリ付いた水着の中を小さな波が押し寄せ銀色のビキニをぷかぷかと浮かばせては胸元を震わせている。綿菓子の中にくるまれているような居心地に眼をつむり、フレイは水を感じていた。
 頬にかかる水飛沫に瞼を閉じ、フレイは手足の動きを止めた。白く小さい泡が消え静かにゆらゆらと浮かぶ身体にフレイは身体の力をぬいた。少しずつ耳に忍び込む水の流れに身を任せ息を吸い込んだ。
 

  ピチャン、と短く鋭い水音がプールに響き渡りフレイの唇から笑みが綻ぶ。
水がゆったりと揺れ水面に波紋が広がる。水面が鼓膜を覆い、濡れた紅い髪から滴る雫が頬や瞼に滑っていった。
くぐもった呼吸音を正し息をひそめると次第に水の動きが大きくなった。

「…イザーク?」

 眼をつむったままフレイは呟いた。くるくる鳴るお腹の音を水の音でかき消そうと、フレイは仰向けのまま両腕を頭上に上げた。
 腰に回された手が水を掻き水に漂う身体がゆらりゆらりと低く、小さく波立つ水飛沫に埋もれていく。浮かんでいたフレイは立ち上がり顔の水滴を手のひらで振り払う。力強く引き寄せられた其処にはイザークの心音が待っていた。

「…違う奴だったらどうする」

 水も滴るなんとやら、か――――。
 心の中で呟くイザークの腕の中に納まるフレイはいつか買ってやった水着を着ている。豊かに揺れる胸を強調するビキニはフレイが選んだものだ。イザークの色ね、と囁くフレイの声につい戸惑い早々と会計を済ませたことしか覚えてない。露出度の高いそれを浜辺では決して着させないイザークに抗い、フレイは彼を何度もやきもきさせてきた。
 弄ばれていることと解っていながらいつも相手に譲ってしまう。それはきっと今夜のように、自分だけに魅せるフレイの水着姿を独り占めできるからかもしれない。拗ねているフレイでも、泣いているフレイでも、彼女が腕の中にいるだけで疲れも知らぬ間に吹っ飛んでいく。

 俺はいつからたった一人のナチュラルのために欲張りになったのか。
 多分一目で会ったときからだろう。最初はナチュラルの不満を当り散らしたい欲望を満たすためにフレイを探した。そのうち簡単に心の隙間から忍び込むフレイを追い出せず、終いには追いかけてしまいたくなる欲望を満たす為に欲張りになり、追いついたフレイを何処にも逃がしたくない欲望を今、満たそうとしていた。
 それは何年、何十年かけても満たされそうにない渇望だ。

「そんなはずないわ…家にいるのわたし達だけでしょ」

「俺は今帰ったばかりだぞ…戸締りぐらい…」

 危機感がないのは自分に頼りきっているからだと信じたい。屋上の野外プール設計図を見せた当時フレイはまるで高台にある温泉に浸かっているみたいだ、と言いプールは庭に建てたグリーンハウスの中、もしくは蘭の花が咲く中庭に替えろとイザークに煩いほどねだった。屋上の方が安全だと言ってもどうしても嫌だ、とフレイは踏ん張り仕方なく中庭にプールを建てた。ひと悶着の末譲るのは自分だとわかっていながらフレイと張り合った数ヶ月。
 フレイはプールを気に入った。気候や気温の設定をするプラントの夏は熱い。今では昼間の熱気が引いてゆく夜に泳ぐことを日課にしている。

「遅く帰ってきておいて…なによ…説教ばかり」

 フレイは気だるい身体を更に寄せると服のまま水の中に入ったイザークの銀髪をすくいあげる。
 ぴったりと張り付く白いシャツはイザークの肌色を灰色の影を落としている。指先でそっとシャツを摘みあげると雫が数滴手首に滑った。
 ああ、この蒼い瞳に見つめられるだけで自分の居場所を見失わずにいられる。特に心が安らぐわけではない。かえって心に波立たせる視線をイザークは寄越す。その波は荒かったり、優しかったり、痛かったりする。様々な感情を引き出す波は痛く自分の居る空間を浮き彫りにし、不安で打ちのめされそうになる胸内を彼は受け止めてくれるのだった。鋭く冷たい瞳に覗き込まれる度に、傍に温もりを感じる度に、フレイは自分が生きている確信をイザークから分けてもらっていた。

「それに」

「…びしょ濡れなんて…最低」

「そのうち沈むな…重くなってきた」

 回していた腕にぺッタリと張り付く白いシャツはねずみ色に染まり、有り余るほどの雫に身体が引っ張られるようだ。

「沈ませないから」

「あ…おい…っ…フレイ…!」

 ソロソロとフレイが指をシャツのボタンに忍ばせると彼は切り揃えた銀髪を小刻みに躍らせた。フレイの素早い指の動きであわ立つ波に攫われシャツが水中を彷徨い、水面に浮かんだ。水平に広げていた腕が露わになりイザークを見上げたフレイはファスナーを下げる。
 ひんやりした水に覆われる引き締まった肉体は逞しく、無駄がない。一寸の贅肉などみあたらない腰周り、腹部に浮き出ている硬い腹筋、そして毎夜フレイを追い詰める下半身に彼女は手のひらを滑らせた。

「一緒に…っていつかイザーク、言ってたでしょ」

「おまっ…よくも…腹減ってるんだろ」

 鋭い声で相手を咎める一言も実は駆け引きの重要なステップのうちの一つ。一つずつこなしていく過程で胸の高鳴りは速く、激しくなる。裸になったイザークは身が軽くなりフレイの手首を掴んだ。弾ける笑みをたたえるフレイを抱き寄せようとすると器用にスイ、と腕から逃れた。

「わたしの方が脱がせるの、速いわね…フフッ…」

「…このっ…一緒だと言ったな…っ…」

「あっ…」

 笑いが止まらない二人の間を水飛沫が大きく跳ね上がりイザークは潜ろうとするフレイを抱きかかえると二人して水の中に沈んでいく。重い水中でイザークはすかさずフレイのビキニを解いた。両腕で白い胸を覆う間をイザークは与えず、彼は裸身になったフレイを水面に這い上がるとともに掻き抱いた。
 星の輝きをを浴びる水中はゆらゆら、銀と紅交互にちらちらと影を落としている。

「あっ…お、おぼれる…って…ば…はぁっ…」

 ひっくり返る上体を起こそうとすると濡れた上半身に支えられたまま数メートル先まで泳ぎ、イザークはフレイを壁に押し付ける。プールの壁の、ヌルヌルとした感触にフレイは顔をしかめた。髪先から零れるように落ちる雫が視界を妨げ、フレイは軽くかぶりをふった。
 銀睫に覆われる瞳に射すくめられる。瞳に宿る灯は執拗に輝きを増した。いつの間に塞がれた唇は荒い息を送り込まれフレイは息苦しくなった。
 水中を彷徨いふわりと浮かぶ紅い髪や下腹部の茂みにイザークの指が掻き分ける間、くちづけを落とす彼の息遣いと重なる激しくなった動悸しか聴こえない。
 繰り返される舌の動きにイザークは林檎味の溜息を吸いんだ。重なる冷たい唇から漏れる林檎の吐息を二人呑み、拾い集めながら二人はせめぎあう水圧に抗い、四肢を強く絡ませた。

「…っ」

 乱れた呼吸を交わすくちづけにイザークはフレイを抱え上げると水面に漂わせた。長く紅い髪が胸の蕾を覆い、イザークはそっと髪を取り除き蕾を手のひらで覆うとフレイを力強く抱きしめた。

「…俺はとっくに溺れてる…お前に」

 星空を反射する水面は交わる二つの影をゆっくり、優しく包み込んでいた。






あとがき
遅くなりましたが1万打ありがとうございます。自分の家で裸泳ってどうなんだろう。最後のイザークのキザな台詞に呆れますか。ありえないと思いますか。すみませんどうしても言わせたかったのです。