じゃじゃ馬ならし

  ムッと生臭い獣の匂いがたちこもる厩舎は湿った空気に包まれていた。レンガの隙間から一筋ずつ漏れてくる外の眩い光が藁の束を一本ずつ黄土色から黄金色に照らしている。入り口から反対側にある曇った窓ガラスは少し開いていて、時折涼しげな風が湿った室内を走り抜けていた。6っつの仕切りは全て埋まっていた。
  6頭の牡馬はどれも立派な血統書付きのサラブレッドだ。飼い主に歓迎の嘶きを一斉に立てる馬をイザークは一頭ずつ撫で、あやしている。

「誰もいないのね」

厩舎は6頭の馬以外ガラン、ともぬけの殻だった。一歩ずつゆっくり進むイザークの背中の後につづき、フレイは部屋を見渡した。

「お茶の時間になると皆屋敷に戻る」

入り口から向かって右手にある2番目のしきりに納まるのはイザークの愛馬である。真っ黒な毛並みはとても丁寧に梳かされていて、漆黒の艶を放つその馬は他のどの馬よりも姿勢がよく、際立っていた。

「そうなの」

「しばらくだったな。元気か。どうどう…」

長い尻尾を振り上げては下ろしている愛馬の鞍を調えるイザークの顔から笑顔が綻んでいる。家に帰る時のイザークは小さな子供のようにはしゃぐ。懐かしむような、いつくしむような柔らかな横顔を見ながらフレイはふるふると上機嫌に上体を揺らす愛馬に触れた。

「イザークに会えてとても嬉しそう…あっ…」

そっと手のひらを背中に置くと馬はたてがみを左右に動かし、喉を鳴らすと面長の顔面をフレイの頬に摺り寄せた。馬がカチャカチャと鳴る留め金を振り払うように左右に揺らし、身を乗り出した。

「お前…フレイを覚えているのか…?」

まだ2,3度しか会っていないはずの愛馬が低く嘶きながら頭を上下に、左右に、たてがみをゆらす。背中を撫で擦るフレイの手に反応し、熱い息と温く大きな舌が頬を少しだけ撫でた。

「ひゃっ…く、くすぐったぁい…あ、もう、イザーク笑ってないで…手、手伝って…」

思わず眼をつむる瞼の隙間から覗くと、くっ、くっ、と喉を激しく鳴らし、手綱を引くイザークが声を出して笑っている。パンパン、と黒い、整った毛並みの背を軽く叩くと愛馬は背を仰け反らせ、フレイの髪に生ぬるい息が再び吹きかかった。

「あ…っ…ちょ、イザーク…もうっ…」

「とんだじゃじゃ馬ならしだな…ははっ」

「イ、 イザークってば…笑ってないで…」

未だ笑い終えずにいるイザークは手綱を強く引き、馬を後方へと下がらせた。

「フレイ、舐められたな…」

眉にかかる銀色の前髪を唇でふうっと吹き上げるとフレイの濡れた頬から項へかけててのひらを滑らせた。

「笑わないで…もう…ん…」

 前髪が触れ合い唇が奪われた。
 朝飲んだコーヒーの微かなほろ苦さが口内溢れる唾液とともに混ざり合う。手にしていた手綱を放したイザークがフレイを抱き寄せた弾みにコツ、コツ、と蹄が藁の束を掻き分け、木製の仕切りがギッと軋んだ。真ん中の通路に映し出され重なる二つの影に、6頭の馬が忙しく蹄を鳴らす。低い嘶き声は掠れているのもあれば、よく通ったものもあった。静かにあわさったくちづけが深くなり、抱きしめる両腕に力をいれた。藁がサワサワと重なる物音が次第に落ち着いてきた。
 薄く開いていた厩舎の窓がカタンと音を立て、涼しい風がひやりと頬を掠める。

「…っ」

依然唇を放さずにいるイザークの肩越しを薄目で覗くとそこには華奢でスラリとした影が佇んでいた。

「ちょ、ちょっとイザーク…お、おばさまが…」

重なっていた唇が濡れたまま離れた。暖かく絡んでいた両腕が解かれ、二つの手のひらがスッと重なった。

「イザーク…やはりここにいたのね」

 愛馬を片時も離れたことのない我が子の行動は見抜いていた。元気に家の練習場や森を駆けていた少年時代がエザリアの脳裏を横ぎった。お茶に誘うのは一月ぶりだ。自慢の薔薇園で散歩をすることが以前は日課だったのだが。今では多くて月に一度しかしていない。

「母上。ご無沙汰しております」

  外の光りを浴びながら蒼い瞳を細めるイザークをエザリアは眩しそうに仰いだ。逞しく育ったイザークは戦時既に背丈を追い越した。若い二人の重なる手のひらに思わず視線が注がれた。
  厩舎の入り口に立つ婦人に歩み寄る二人は外のさんさんと降り注ぐ陽の光に思わず瞼を閉じる。

「お久しぶりです。おばさま」

「天気がとてもいいこと」

紅い髪を振り払うフレイはいつもイザークの母を前にすると自然と緊張で強張る。エザリアはどのくらいの間、厩舎の外で待っていたのだろうとふと考え込み、全身が火照り始めた。

「そうですね…」

「今日は…イザーク、あなたの大好きなローズヒップティーでお茶をしようかしら、と思ったのよ」

「庭の薔薇ですね」

「そうよ」

「母上お手製のケーキも一緒に、ですか」

「今日はシュークリームにしたわ。フレイさんが好きだ、とあなた言っていたから」

「おばさま…そんな気を使わなくても」

  汗ばむ手のひらが滑りゆくのをイザークは握り締める。口調や態度など大人しすぎるほど急激に変わる。日頃朗らかで少し口うるさいと思っているフレイがしおらしくなるのは母に恐れを抱いているのだろうか。きっと、それだけではない。ラブ・シーンを目撃されたにも関わらず、イザークはあまり気の留めていなかった。それは多分フレイが代わりに緊張しているからだろう。

「そんなことないわ。さ、行きましょう」

  毅然とした態度から覗くエザリアの気品に気後れしてしまっているようだ。手を繋いでいるにもかかわらずフレイは一歩イザークの後を歩いた。

「あら。ちょっと待って、イザーク」

「はい、母上…何か…」

  振り返るエザリアは前かがみになったイザークの唇を親指で触れる。

「口紅がついているわ」

エザリアは輝くように微笑んだ。指先にのるラメ入りの口紅は太陽の反射でキラキラと輝いている。

「あ…」

親子の銀髪を一段と引き立てる陽の光が一層強くなり、フレイは軽い眩暈を覚えた。ふと、自分の唇に指をもっていくとそれは少しカサついていた。口紅で濡れていた唇は先ほどのくちづけで拭われてしまったようだ。

「すみません」

「ふふ…いいのよ。あなたもフレイさんも微笑ましいこと」

  凛とした声にフレイはぎこちなく身づくろいをする。手持ち無沙汰になった片手をどこへどうやればわからなくなり、スカートを握り締めた。あの時、どれくらいの間自分たちを眺めていたのだろうか。キスはそれほど長くはなかったはずだ。息子が自分にくちづけを与えていた現場を目撃したエザリアはどう思っているのだろう。にこやかに微笑む彼女の表情からは読み取れない。

「ナチュラルはその名の通り自然体なのね…」

「え…」

「その色も、仕草も、とても自然ね...矢張り私達と...違うのかしら」

  ふわっ、と白く細い指先が頬から首筋を滑り、後れ毛を掬い上げる。優しいような、冷たいような視線にフレイはイザークの手を握り返した。項を這うエザリアの冷たい指先に熱くなった頬を少しだけ逸らすとフレイは俯いた。緊張と静かに沸き起こる羞恥心がフレイの耳たぶを紅く染める。紅い前髪をまたふわり、とエザリアは掻きあげた。

「母上…今日のお茶はどちらで」

俯いたフレイの手を握り返すと同時にイザークは母に問いただした。

「ナチュラルとはまた違った栽培方法なのかもしれないでしょうけれど」

  唇の端を少しだけ持ち上げ白くきめこまかい肌を魅せるエザリアは涼やかな声で答える。戦後漸く、囚われていた既成概念から解き放たれたと思っていた。しかし、違うものは矢張り、違う。外見からはそう見えなくとも、身体のつくりは違う。それは絶対的事実であって、否定できることではない。違いを唱えられる度にまるで自分が悪いことをしたようかに思えて、フレイは汗を握りしめる。違いを指摘されながらも屋敷を訪れる都度快い接待をもてなすエザリアの口調には殺意や憎悪は全くなかった。

それがかえってフレイを困惑させている。

「薔薇園の中庭でお茶を頂きましょう」





あとがき

我が子のラブラブ目撃しちゃった小話です。厩舎でラブ。1話から抜粋した小噺。紅い色って自然?ん?