憂 い 色 の 雨




 ざわざわと空気を震わす病院の待合室にフレイは一人佇んでいた。人々が囁き合う声を遠くに聞きながら、白い壁にかけられた時計が刻む針音に耳を澄ます。受付を済ませてから長針は優に二回りを数えていたが、順番が巡る気配は未だになかった。
 彼女が足を運んだのはプラントにある数少ない総合病院だった。医療プラントにほとんどの大病院が立ち並ぶ中にあって、ここには珍しく研究機関も併設されており、イザーク曰く、ここには腕の良い医者が揃っているのだと云う。
 病に罹ることの少ないコーディネーターにとって、病院はそれほど需要が高くないためか総合待合室は閑散としていたが、各科の待合室、とりわけ産婦人科は十数名の患者で椅子が埋まっていた。
 待合室は妊婦だろう女性とそのパートナーらしき男性ばかりだ。その表情は皆一様に明るく、おのおの何事かの言葉を交わし合っては幸せそうに笑っている。そんな彼らを見るにつけ、フレイは手のひらをぎゅうっと握りしめた。

 イザークの名は出さなかった。「そうすれば診察なんてすぐ終わる」と、彼は去り際に昨日と同じ様に念を押したが、彼の名を使うのはなんだか狡い様に思えたのだった。今こうして待ち惚けているのはその結果なのだが、これで良いのだと思う。

 (家族でも、ないのに)

 ふとしたことで首をもたげる負い目が、胸の奥に針を刺した。
 ディアッカとミリアリアの笑顔が脳裏に翻る。これから二人は家族になる。

 「次はおまえたちだな」

 昨日のパーティの帰り際、ディアッカからこんな言葉がかかった。
 きょとんと互いの顔を見合わせた二人に、彼は大仰に溜息を吐いて見せた。

 「惚けんなよ婚約だよ、こ、ん、や、く! ていうかもう秒読みだろー? ミリィ頑張ろうな、下手すりゃこいつらに子供、先越されちゃうぜぇ」
 「ちょっとディアッカっ!」
 「なっ…!馬鹿か貴様っ!」

 ミリアリアの肩を抱き寄せ、にやりと意地悪い笑みを浮かべながら軽口を叩くディアッカにミリアリアとイザークの冷たい視線が刺さった。しかし彼はそれを気にする風でもない。さらに言い募る。

 「そう照れるなって。 子作りはプラントの未来に資する最重要事項だぜ?」
 「貴様が言うと軽く聞こえるっ!」
 「へーへー、そうですか。 ま、頑張れよ」
 「煩い! 余計な世話だっ!」

 終いには顔を真っ赤に染めて声を張り上げるイザークに、ディアッカは可笑しそうに喉を鳴らしていたが、最後の一言にはふと真摯な光が宿った。一瞬、フレイの方を見、柔らかく目を細めて。
 彼なりの激励にその一瞬、確かに彼女はひっそり心を暖かくした。けれど、今その厚意すら不安に変わりつつある。

 この光景はいずれ彼らに在る未来だ。
 でも果たしてディアッカの言う通り自分にも、いや、自分たちにもこんな未来があるのだろうか―――?

 不意に強く腹壁を苛んだ鈍痛に一瞬呼吸を止める。冷たい汗が額に滲んだ。
 痛みはあれからずっと引くことなく、時折波のように押し寄せる。自身を抱き締めるように体を縮こまらせそれが過ぎるのを待つ。きつく閉じた眦に、じわりと涙が滲んだ。

 (イザーク、なんでここにいないの…?)

 この痛みを宥め擦る優しいぬくもりが欲しい。不安を拭い去る優しい声が欲しい。
 彼がここにいないのは仕方のないことだとわかっている。なのに願ってしまうこれは己の甘ったれた我儘でしかない。けれど、ずっと胸の中心に巣食うこの心細さはどうしようもなかった。

 痛みが徐々に引いて行く。大きくひとつ息を吐き、空を仰ぐ。見上げる先には白く高い天井が続き、その広すぎる空間に居た堪れない孤独を覚えた。

 「フレイ・アルスターさん、診察室へどうぞ」

 白のカーテンが翻り、折しも診察を告げる声がかかる。フレイは沈んだ思考を払うように軽く首を振った。
 ゆるゆると立ち上がる。緩慢とした動作で歩を進める後姿は、白いカーテンの向こうへと消えていった。









 いつもは心落ち着くはずの紅茶の香りも、今の己に平静をもたらすことはない。十数年間慣れ親しんだ肌に馴染むはずのこの空気すらどこか居心地が悪く胸をざわつかせる。
 甘い薔薇の湯気に撫でられながら、腕の時計に目をやる動作をイザークは先刻から何度も繰り返していた。
 午前の早い時間から始まった会議は、昼を過ぎてからようやく議論の収束をみせ散会となった。その足で昨日のエザリアの言付け通りに彼女の邸宅に立ち寄ったイザークだったが、ポプリを受け取ったらすぐ帰途につこうという思惑はエザリアに半ば強引に引き止められたことで立ち消え、それを断れずに彼女のもてなしを受けることとなり今に至る。

 イザークのティーカップに二杯目のローズヒップティを注ぎながらエザリアは涼やかな青の虹彩を細めた。労わる声音がそっと彼の右肩にかかる。

 「疲れたでしょうイザーク、今日の会議はどうだったの? 議題は?」

 歌うように紡がれるエザリアの言葉は先日から打って変わって柔らかく響いた。フレイと一緒の時とはまるで違うそれに苦いものを覚えながらイザークは微笑を返す。

 「いつもと変わりませんよ、頭の固い年寄りがなかなか議論を先に進めてくれません。 議題は前回と同じですね。 一月後のオーブの会談の話と―――そのセキュリティについて」
 「ブルーコスモス?」
 「ええ、厄介な連中です」

 今ではもう政治から退いた彼女だが、相変わらず世界の情勢には聡く、鋭い。
 『コーディネーターとナチュラルの融和』が謳われ始めた世界の中で未だ在る反抗勢力、その中で最も過激な集団として前盟主亡き今も世界各地でテロ活動を続けているブルーコスモスへの対策は、評議の場に毎回議題として上がっていた。
 このことに関しては元軍属であった評議会議長のアスランとイザークが先導して討議を進めるのが常なのだが、今回の犯行声明がオーブ会談の妨害ということで未だナチュラルとの共存を渋る一部の議員がそれならば、と会談の中止を唱え始めたのだ。彼らを宥めながらも半ば強引にテロ対策の決議を採択したが、全く貴重な時間を下らない論議に費やしたものだとイザークは深く溜息を吐いた。

 (外もそうだが―――、内も厄介だ)

 下手に在院が長い分、彼らは屁理屈を捏ねる弁だけは立つ。
 普段なら以前よりは幾分容量を増した堪忍袋にその文句を流し込むのだが、今度ばかりは彼らに構う余裕などない。久しぶりに檄を飛ばし彼らを黙らせた後、早々に採択へとこじつけてしまったイザークにアスランは物言いたげな視線を向けていたがそんなことは彼にとって知ったことではない。

 フレイは病院へ行っただろうか。検査は滞りなく済んだのだろうか。悪い病気に罹っていなければいいが。
 目下イザークの心中を占めていたのはこれでしかない。彼女の心細げな眼差しが焼き付いて離れず、それならせめて迎えに行けるようにと努めたつもりだったが―――。
 彼女からの連絡は未だ無い。それがイザークの心に一点の陰を落としていた。

 「イザーク、どうかしたの? さっきから随分と時計を気にしているみたいだけれど。 何かこれから用でも?」

 穏やかな母の声色に一瞬口を噤んだ。彼女のことを話すべきだろうかと躊躇う。己と同じ色を宿す双眸が気遣わしげに見詰めていた。そんな母の様子に恐る恐る口を開いたが知らず言葉の歯切れは悪くなった。何も疚しいことではない、なのに彼女の目を直視出来ない己がもどかしい。

 「フレイが、体調を崩しまして」
 「あら、どうなさったの?」
 「わかりません、なので病院に行くようにと」
 「……じゃあ、お迎えに行ったほうが良いのではなくて?」

 イザークは俯いていた顔を振り仰いだ。エザリアを見やれば彼女は変わらぬ微笑を浮かべている。しかし、僅かにその声色が冷ややかさのようなものを帯びたことにフレイの身を案じているというよりも己の思考を先回りされたように思われて彼は心の中で肩を落とした。

 (まだ、彼女が受け入れられませんか、母上)

 未だにエザリアのフレイに対する態度からは余所余所しさが消えない。彼女が気に入らないのか、彼女がナチュラルであることが気に入らないのか、あるいはその両方か。いずれにしても母のことでフレイを傷つけることだけは避けたい。それを思うと慎重にならざるを得ないのだが、この調子だと先が思いやられる。

 「すみません母上」
 「謝ることなんてないのよ。 また寄ってくれるわね?」
 「はい、では失礼します」

 短く一言、謝罪を口にして席を立った。コートを腕にかけながらふと窓の外を見やる。厚い雲に覆われた天が暗い影を地上に落としていた。大きな窓から覗く鈍色の空に微かな胸騒ぎを覚えながらイザークは踵を返す。
 リビングから続く長い廊下を足早に過ぎ、玄関をくぐると重く湿った空気が肌に触れた。纏わりつくそれを振り仰ぎ、呟く。

 「雨が、降りそうだな」











  「子宮内膜症ですね」

 目を細め、カルテにペンを走らせるのは、フレイとそう歳の変わらない女性だった。
 一通りの検査を終えた後、医師は彼女にこう告げた。少しだけ固い声音に、フレイも身を固くする。
 聞き慣れない病名だった。彼女は目を瞬いた。
 てっきり月経痛が重いだけ、とか貧血か何かと言われて、鎮痛薬を貰ってくるのが関の山だろうと思っていたのに。予想よりも深刻そうな医師の態度に戸惑いを覚えながらもフレイは言葉を絞った。

 「あの、それはどういうことなんですか?」
 「端的に言えば、月経が起こる『子宮内腔』という場所以外で月経が起こる様な病気、と捉えていただければ結構です」

 医師は傍らの引き出しからリーフレットを取り出すと、デスクに置いた。見開いたそこには、女性の腹部を表した模式図が描かれ、彼女はその一点を指差す。

 「月経時に増える子宮内膜という組織が、子宮以外の場所に生育する病気なの。 月経のたびに内出血を起こすから、酷い腹痛が伴います。 重症の場合は中で炎症や癒着を起こしたりして、生理以外の時も腹痛が続くんです」

 医師の指が紙面をなぞり、痛みは患部のある場所によっても違うのだと説明が施された。それから一旦話を切った彼女は、フレイを覗き見る。窺うような眼差しに、息を呑んだ。
 彼女の云うそれは己の症状と酷似している。ただでさえ血の気の少ない顔からすぅっと血が引いてゆく感触。それと同時に宣告は下された。

 「そしてあなたの場合、今言ったように恐らく中で炎症を起こしている状態なんです。 微熱は結構続いていたようですし、生理前にも腹痛があったなら、その可能性が高い。 超音波でお腹の中を覗きましたけど少しだけ卵管が腫れている様なので、もしかしたら卵管が癒着しているかもしれません」
 「それは…あの、治るんですか?」

 声が、掠れる。ますます曇り始める医師の表情に、心臓は不自然に跳ね上がっていた。彼女の視線がことさら丁寧にフレイに合わせられる。噛んで含めるようにその口が開いた。

 「残念ながらこの病気は確実に治る、とは言い切れません。 ただ、子宮内膜の増殖を抑える方法、つまり月経を来なくする方法で症状を和らげることは可能です。 それか、もし完治を見込むのなら手術で患部を取り除くしかないでしょうね。 範囲が広範囲に及べば難しいことなのですが」
 「手術でって…、お腹、切るんですか…?!」

 手術、の一言に大きく反応してフレイは不安に染まった眼差しを医師へと向けた。それを受け止める彼女は引き出しからもう一つ、リーフレットを取り出す。

 「なにぶん、内膜症の程度まではわからないので何とも言えません。 ですから、もし手術を希望なされるなら腹腔鏡手術で確定診断をつけてから手術の方式を決定するしか……。 腹腔鏡の手術は、お腹につく傷も最小限で済みますが、もし内膜症の範囲が広かった場合や癒着が酷かった場合には開腹手術…、そして申し上げにくいのですが最悪の場合、子宮を取るということも……」

 言葉を濁すと、医師はリーフレットに記された文字を辿る指先をある一箇所で止めた。痛ましそうな瞳がフレイを見据える。その様子を彼女はどこかぼんやりと眺めていた。迫り上がる不安が思考を徐々に麻痺させてゆく。辛うじて口だけが掠れた声を出した。

 「それは……?」
 「将来、子供を産めなくなる可能性がある、ということです」








 設定された時刻通りに、プラントの大地を雨が潤し始めた。最初、ぱらぱらと落ちていた小雨はやがて微かにその勢いを増し、街行く人々はそれぞれに傘の花を咲かせていた。
 ちょうど病院の前を通りかかった時だった。車窓から見えた後姿にアスランは車を停めた。色とりどりの傘が道を行き交う中でなお目に付く鮮やかな緋色。雨に濡れる赤髪がさらにその彩を濃くし、細い肩に張り付いていた。

 (フレイ・アルスター?)

 唇が友人の恋人の名を小さく紡いだ。

 病院の正門から出てきた彼女はどこか覚束ない足取りで今にもくずおれてしまいそうな危なっかしさを覚える。眉を顰めながらアスランは車を路肩に寄せた。
 どこか体の調子が悪いのだろうか、それにしても何故一人で歩いているのだろう、こんな状態なら誰かが付き添うべきだろう―――ここまで考えて、今日の評議会でのイザークの様子がおかしかったことに思い至る。彼が妙に事を急いていたのは彼女が関係していたのかもしれない。でも、それなら何故彼がここにいないのだろう。
 疑問符だらけだが、とにかくとアスランは車を降りると傘を持ってフレイを追いかけた。どちらにしろこのまま傘も差さずにいれば体調を崩してしまうだろう。酷くゆっくりな歩調の彼女にはものの数秒で追い着く。

 「こんなところでどうしたんだ?」

 傘を差し出し彼女の頭上に翳すと、一瞬肩を震わせたフレイはゆっくりと首を巡らせた。アスランは息をのむ。
 白い頬が濡れているのは雨の所為だけではない。蒼の眸が茫洋とアスランを見、それから微かに笑った。虚ろな笑みだった。

 「アスラン…?」

 ふと遮られた雨に声のする方を振り向くと、そこには見知った顔が立っていた。翡翠の瞳が心配そうに覗き込んでいる。きっと自分は心配されるような変な顔をしているんだと、フレイはほぼ反射的に笑みを象って見せた。

 「傘も差さないで…、忘れてきたのか?」

 どことなく靄がかって聞こえるアスランの問いかけに、そういえば傘は病院に忘れてきたなと思い至る。けれど、そう説明をするのも億劫で彼女は黙って首肯した。
 忘れたのは傘だけではない、診察が終わってからどこをどう歩いて外に出たのかフレイはよく思い出せなかった。

 「アルスターさん、あなた、パートナーはいらっしゃる? もし、パートナーやあなた自身が妊娠を望むのなら、治療法の選択について、よくご相談なさって下さい」

 最後に聞いたのは、医師のこの一言だ。
 治療をしなければ、結局は不妊になる可能性がある。治療をしても、月経を抑制する方法を取れば妊娠不可能で、手術をしても最悪の場合もしかしたら子宮を取ることになるかもしれない。
 選べと言うのだ。この希望を見出せない選択肢の中から。
 妊娠を望むか。そう問われて答えるのなら彼女はイエス、だ。一向に進展しないイザークとの関係にこのままでもいいと思いながらも、胸の奥底は待合室で見たような光景をきっと思い描いていたから。
 けれど、イザークはどうなのだろう。己の体に起きたことを知ってなんて言うだろう。
 そこまで考えて、ようやく自分が泣いているのだと気付いた。

 もし、"これ"がなくなったら己にはどれほどの価値しか残らないのだろう―――?

 抑えた下腹が鈍く疼き出す。鎮痛薬を服用していてもなお、痛みはフレイの体を、心をぐちゃぐちゃに引っ掻き回した。今更になって押し寄せてきた悲嘆に全身が震え始める。
 傍らのアスランは、微かに嗚咽し始めた彼女にその訳を問おうとはしなかった。ただ、雨を遮るようにそこにいるだけ。今はそれが有難かった。

 「家まで送るよ。 このままじゃ、風邪を引く」

 やがてそう言いながら、羽織っていたコートを肩にかけられる。濡れた皮膚に落ちるその温もりは優しくて、フレイは安堵にも似た溜息を漏らした。
 頷いてゆっくりと目を瞬くと涙が雨粒に紛れるように落ちた。







('04/8/2)

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4話担当ユウです。遅くなって大変申し訳ないです、本当にすみません…。
告げられたフレイの病名から波風が立つ様子。これから彼らはどうなるのでしょうか?
所々に嘘満載の拙い作品ですが読んでいただいてありがとうございました。