憂 い 色 の 雨 ざわざわと空気を震わす病院の待合室にフレイは一人佇んでいた。人々が囁き合う声を遠くに聞きながら、白い壁にかけられた時計が刻む針音に耳を澄ます。受付を済ませてから長針は優に二回りを数えていたが、順番が巡る気配は未だになかった。 イザークの名は出さなかった。「そうすれば診察なんてすぐ終わる」と、彼は去り際に昨日と同じ様に念を押したが、彼の名を使うのはなんだか狡い様に思えたのだった。今こうして待ち惚けているのはその結果なのだが、これで良いのだと思う。 (家族でも、ないのに) ふとしたことで首をもたげる負い目が、胸の奥に針を刺した。 「次はおまえたちだな」 昨日のパーティの帰り際、ディアッカからこんな言葉がかかった。 「惚けんなよ婚約だよ、こ、ん、や、く! ていうかもう秒読みだろー? ミリィ頑張ろうな、下手すりゃこいつらに子供、先越されちゃうぜぇ」 ミリアリアの肩を抱き寄せ、にやりと意地悪い笑みを浮かべながら軽口を叩くディアッカにミリアリアとイザークの冷たい視線が刺さった。しかし彼はそれを気にする風でもない。さらに言い募る。 「そう照れるなって。 子作りはプラントの未来に資する最重要事項だぜ?」 終いには顔を真っ赤に染めて声を張り上げるイザークに、ディアッカは可笑しそうに喉を鳴らしていたが、最後の一言にはふと真摯な光が宿った。一瞬、フレイの方を見、柔らかく目を細めて。 この光景はいずれ彼らに在る未来だ。 不意に強く腹壁を苛んだ鈍痛に一瞬呼吸を止める。冷たい汗が額に滲んだ。 (イザーク、なんでここにいないの…?) この痛みを宥め擦る優しいぬくもりが欲しい。不安を拭い去る優しい声が欲しい。 痛みが徐々に引いて行く。大きくひとつ息を吐き、空を仰ぐ。見上げる先には白く高い天井が続き、その広すぎる空間に居た堪れない孤独を覚えた。 「フレイ・アルスターさん、診察室へどうぞ」 白のカーテンが翻り、折しも診察を告げる声がかかる。フレイは沈んだ思考を払うように軽く首を振った。
イザークのティーカップに二杯目のローズヒップティを注ぎながらエザリアは涼やかな青の虹彩を細めた。労わる声音がそっと彼の右肩にかかる。 「疲れたでしょうイザーク、今日の会議はどうだったの? 議題は?」 歌うように紡がれるエザリアの言葉は先日から打って変わって柔らかく響いた。フレイと一緒の時とはまるで違うそれに苦いものを覚えながらイザークは微笑を返す。 「いつもと変わりませんよ、頭の固い年寄りがなかなか議論を先に進めてくれません。 議題は前回と同じですね。 一月後のオーブの会談の話と―――そのセキュリティについて」 今ではもう政治から退いた彼女だが、相変わらず世界の情勢には聡く、鋭い。 (外もそうだが―――、内も厄介だ) 下手に在院が長い分、彼らは屁理屈を捏ねる弁だけは立つ。 フレイは病院へ行っただろうか。検査は滞りなく済んだのだろうか。悪い病気に罹っていなければいいが。 「イザーク、どうかしたの? さっきから随分と時計を気にしているみたいだけれど。 何かこれから用でも?」 穏やかな母の声色に一瞬口を噤んだ。彼女のことを話すべきだろうかと躊躇う。己と同じ色を宿す双眸が気遣わしげに見詰めていた。そんな母の様子に恐る恐る口を開いたが知らず言葉の歯切れは悪くなった。何も疚しいことではない、なのに彼女の目を直視出来ない己がもどかしい。 「フレイが、体調を崩しまして」 イザークは俯いていた顔を振り仰いだ。エザリアを見やれば彼女は変わらぬ微笑を浮かべている。しかし、僅かにその声色が冷ややかさのようなものを帯びたことにフレイの身を案じているというよりも己の思考を先回りされたように思われて彼は心の中で肩を落とした。 (まだ、彼女が受け入れられませんか、母上) 未だにエザリアのフレイに対する態度からは余所余所しさが消えない。彼女が気に入らないのか、彼女がナチュラルであることが気に入らないのか、あるいはその両方か。いずれにしても母のことでフレイを傷つけることだけは避けたい。それを思うと慎重にならざるを得ないのだが、この調子だと先が思いやられる。 「すみません母上」 短く一言、謝罪を口にして席を立った。コートを腕にかけながらふと窓の外を見やる。厚い雲に覆われた天が暗い影を地上に落としていた。大きな窓から覗く鈍色の空に微かな胸騒ぎを覚えながらイザークは踵を返す。 「雨が、降りそうだな」
目を細め、カルテにペンを走らせるのは、フレイとそう歳の変わらない女性だった。 「あの、それはどういうことなんですか?」 医師は傍らの引き出しからリーフレットを取り出すと、デスクに置いた。見開いたそこには、女性の腹部を表した模式図が描かれ、彼女はその一点を指差す。 「月経時に増える子宮内膜という組織が、子宮以外の場所に生育する病気なの。 月経のたびに内出血を起こすから、酷い腹痛が伴います。 重症の場合は中で炎症や癒着を起こしたりして、生理以外の時も腹痛が続くんです」 医師の指が紙面をなぞり、痛みは患部のある場所によっても違うのだと説明が施された。それから一旦話を切った彼女は、フレイを覗き見る。窺うような眼差しに、息を呑んだ。 「そしてあなたの場合、今言ったように恐らく中で炎症を起こしている状態なんです。 微熱は結構続いていたようですし、生理前にも腹痛があったなら、その可能性が高い。 超音波でお腹の中を覗きましたけど少しだけ卵管が腫れている様なので、もしかしたら卵管が癒着しているかもしれません」 声が、掠れる。ますます曇り始める医師の表情に、心臓は不自然に跳ね上がっていた。彼女の視線がことさら丁寧にフレイに合わせられる。噛んで含めるようにその口が開いた。 「残念ながらこの病気は確実に治る、とは言い切れません。 ただ、子宮内膜の増殖を抑える方法、つまり月経を来なくする方法で症状を和らげることは可能です。 それか、もし完治を見込むのなら手術で患部を取り除くしかないでしょうね。 範囲が広範囲に及べば難しいことなのですが」 手術、の一言に大きく反応してフレイは不安に染まった眼差しを医師へと向けた。それを受け止める彼女は引き出しからもう一つ、リーフレットを取り出す。 「なにぶん、内膜症の程度まではわからないので何とも言えません。 ですから、もし手術を希望なされるなら腹腔鏡手術で確定診断をつけてから手術の方式を決定するしか……。 腹腔鏡の手術は、お腹につく傷も最小限で済みますが、もし内膜症の範囲が広かった場合や癒着が酷かった場合には開腹手術…、そして申し上げにくいのですが最悪の場合、子宮を取るということも……」 言葉を濁すと、医師はリーフレットに記された文字を辿る指先をある一箇所で止めた。痛ましそうな瞳がフレイを見据える。その様子を彼女はどこかぼんやりと眺めていた。迫り上がる不安が思考を徐々に麻痺させてゆく。辛うじて口だけが掠れた声を出した。 「それは……?」
(フレイ・アルスター?) 唇が友人の恋人の名を小さく紡いだ。 病院の正門から出てきた彼女はどこか覚束ない足取りで今にもくずおれてしまいそうな危なっかしさを覚える。眉を顰めながらアスランは車を路肩に寄せた。 「こんなところでどうしたんだ?」 傘を差し出し彼女の頭上に翳すと、一瞬肩を震わせたフレイはゆっくりと首を巡らせた。アスランは息をのむ。 「アスラン…?」 ふと遮られた雨に声のする方を振り向くと、そこには見知った顔が立っていた。翡翠の瞳が心配そうに覗き込んでいる。きっと自分は心配されるような変な顔をしているんだと、フレイはほぼ反射的に笑みを象って見せた。 「傘も差さないで…、忘れてきたのか?」 どことなく靄がかって聞こえるアスランの問いかけに、そういえば傘は病院に忘れてきたなと思い至る。けれど、そう説明をするのも億劫で彼女は黙って首肯した。 「アルスターさん、あなた、パートナーはいらっしゃる? もし、パートナーやあなた自身が妊娠を望むのなら、治療法の選択について、よくご相談なさって下さい」 最後に聞いたのは、医師のこの一言だ。 もし、"これ"がなくなったら己にはどれほどの価値しか残らないのだろう―――? 抑えた下腹が鈍く疼き出す。鎮痛薬を服用していてもなお、痛みはフレイの体を、心をぐちゃぐちゃに引っ掻き回した。今更になって押し寄せてきた悲嘆に全身が震え始める。 「家まで送るよ。 このままじゃ、風邪を引く」 やがてそう言いながら、羽織っていたコートを肩にかけられる。濡れた皮膚に落ちるその温もりは優しくて、フレイは安堵にも似た溜息を漏らした。 ('04/8/2) -------------------------------------------------------------------------------- 4話担当ユウです。遅くなって大変申し訳ないです、本当にすみません…。 |