落とされた影
外の薄闇に慣れた瞳が玄関ホールの暖かい照明に痺れ、フレイは瞼を瞬かせるとほのかな酔いで熱くなった額に手を当てながら石畳みの廊下を通り抜ける。地中海辺りの豪邸を彷彿とさせる邸はいつみても暖かで和やかな気分に包まれるから、と特別に設計師を呼び建てられたものだった。等身大の鏡が続く廊下の向こうから漏れる光は奥にある大広間のステンドグラスを照らし七色の輝きを発散させている。それは、いつみても心を落ち着かせてくれる光彩だ。臙脂色の壁に行き渡る眩い光を自分の影が覆いかぶさる。
居間は薔薇のポプリが放つ香りで溢れ、鼻がムズムズと痒くなった。両手でやっと持ち上げられるほど大きな木製の入れ物は檜を刳り貫いたものだ、と確かイザークが言っていた。深みのある入れ物を飾るポプリから漂う香りに昨日の出来事が頭の中でワンシーンずつ再現されていく。甘いくちづけの後薔薇園で飲んだ紅茶は苦かった。ポプリに手のひらをいれ、軽く一掴みすると鼻を撲つ香りにフレイは眉をひそめる。まるであの薔薇園にいるみたいだ。
ディアッカとミリアリアの幸せそうな笑顔が瞼の裏から離れない。あんなにいじらしいミリアリアは見たことない。アルコールの酔いも加わっていてか、二人はとても輝いていた。
同じ状況にイザークと自分を当てはめてみながらフレイは資料を片付けている彼の背中を見つめる。ポプリを飾っておきながらボディシャンプーを替えたいイザークの心境を問いただしたい衝動を抑えながらフレイは掴んでいたポプリを放した。エザリアとの足踏み状態が幸せであるひと時でさえ息苦しくさせる。
居間にあるもう一つのドアから出ると冷えた肩に羽織ったイザークのジャケットをフレイは脱ぎながら階段を上り始めると彼を見下ろした。
「わたしシャワー浴びてくる」
手すりに寄りかかりながらゆっくりと上がるフレイを支えようとしたイザークは端末のメッセージランプが赤く点滅しているのを見咎めると居間へ戻った。
――――イザーク、母です。昨日は来てくれてありがとう。薔薇のポプリはちゃんと家に飾ったかしら。貴方ったらもう一袋忘れていったのよ。明日は会議があるのかしら。帰りでも構わないから取りに来て頂戴。
メッセージが受信されたのは丁度ディアッカの家へ発った直後だったらしい。メッセージを残す時はいつもイザーク宛てにする母の伝言を二度繰り返し聴いた後、イザークは消しボタンを押そうか躊躇う。フレイに先に聞かれなくてよかった、と安堵する反面そんな自分を後ろめたく思ったイザークは結局メッセージをそのままにした。今日はもう遅い。
明日の会議は気の進まないような話題が次々と出てきそうだな、とイザークは資料にざっと眼を通す。兵役を退き今は政治に専念している。オーブにおける各連邦の会談が行われるのを一月後に控え、ブルーコスモスの残党が何らかの方法で会談を妨げるとの問題が取り上げられている。戦いは依然休みなく続いている。
居間の照明を落とし、明日の会議の資料を取り上げるとイザークは階段を上がっていった。
大広間のステンドグラスを差し込む月の光はいくつもの色彩に広がり、イザークの足元から伸びる影を映し出していた。
はぁっと鏡を曇らせるとフレイはキュッと布切れで拭いていく音を鳴らしながら顎を上げてみる。顔色の悪さは曇り鏡のせいではないようだ。ワインを飲む時はいつも酔いが気持ちよくまわるはずなのだが今日の火照りは全身をだるく、重くさせていた。湯気がたちこめた20畳もあるバスルームはクリーム色の大理石で纏められている。黒縁の窓ガラスを覆うカーテンを引っ張り、フレイは白いレース地のランジェリーを脱ぎ捨てた。ガラス戸で隔てられているシャワー室とバスタブを見つめながらフレイは髪を下ろした。
お湯がまんべんなく張られたバスタブは薔薇の花びらが浮かべられている。もっとも、今は湯に浸かれずにいる。名残惜しげにフレイはショーツを脱ぎ捨てるとそのままシャワー室へ入っていった。水圧を確かめ、水温を丁度よい温度に上げ、フレイは顎を上げた。
「…もうっ…ボディーソープとシャンプーを間違えるなんて...信じられない」
買い違えた結果薔薇の香りのするボディーソープを使うしかない。ミルキーピンクのボトルを取り上げるとフレイは首筋から胸元へとボディソープをまんべんなく滑らせた。
イザークと付き合い始めてから首筋を隠すハイネックニットを身に着ける事が多くなった。夏が近づくうちにつれてフレイはイザークにキスマークを残さぬよう求めるのだが、いつも彼は軽く微笑っては首筋を更に強く吸い上げてくる。
ボディーソープを弾く白い肌に昨夜刻まれた紅い傷痕を指先で這わせながらフレイは水の流れを全身で感じる。滑り落ちてゆく水を手のひらで掬い上げ、新しく買い替えたココナッツミルクのシャンプーに覆われる紅い髪の色を見つめながらフレイは大きく深呼吸した。
乳白色の大理石に広がる水溜りを踏みつける足の裏は滑るように地面を這う。くるぶしに撥ね返る水飛沫にフレイはかかとを持ち上げた。柔らかな曲線を滑る熱い水のリズムにフレイは瞼を閉じ、蛇口から放たれる規則正しい水音と身体に振り払われる不規則な水音を聴き入った。偶にガラス戸の開く音が聞こえるかと思えばイザークが背後から抱きしめては二人でシャワーを浴びるのだが、今日訪れたフレイの身体の変化を知った今では多分、来ないであろう。
両手を壁に置き、体を支えると揺れる豊かな胸が冷たい大理石を擦り、甘酸っぱい疼きが腰に響いた。髪先から滴る無数の水滴が胸から臍、そして下腹部へと流れ落ちた。
「…っ」
甘酸っぱい痛みに引き続き鋭い刺すような痛みが腰全体に響き渡りフレイは身体を支えていた両手でドアに寄りかかった。ココナッツミルクのシャンプーと薔薇の匂いが混ざる密室は湯気がたくさん天井へと上がっていき、フレイは腰から背中へと広がる痛みに眩暈を感じた。手探りで水を止めようとしたが手首に力が入らず、フレイはそのままドアーを開こうと、重心を右肩に寄せた。
「あ…っ」
もわっと湯気が一斉に逃げ出し、冷たい空気が頬を撫で擦り、フレイはくらくらと回る視界からタオルを探し出し、カラカラと渇く喉を生唾で潤わせると傍のラックに載せてあるショーツを掴み上げる。ミリアリアには生理と言ったのだが、生理まであと10日はあるはずであることと出血量がいつもより多いばかりでなく、今まで体験したことのない激痛に、フレイは生理ではないな、と微かな疑念を抱いていた。力を振絞り辛うじて生理用品をショーツにあてながら両脚を通し、フレイは前かがみになる。耳鳴りが頭の裏側からまばらに、そして勢いよく駆け上がり、冷や汗がどっと溢れ出た。重い頭を両手で支えながらうずくまると背筋に悪寒が走り、大理石の地面が遠ざかったり、近づいたりと視界が歪み始めた。
激痛は腰から背中へ広がり、脂汗が滲み出る両手で掴んだネグリジェで肩を覆おうとした途端、ふっつり、と今までしがみ付いていた意識が切れ、鈍い痛みが額を撲ち、視界が暗転した。
バスルームから水音が絶えないことに気づいたイザークは数十分の間廊下から室内を伺っていた。一度シャワーをする時間が想像以上長すぎると思いそのまま室内に入ったイザークを怒鳴り散らしたフレイを思い出し、暫くの間待っていたのだが。水音が規則正しすぎる。シャワーを浴びているのならもう少しくらい不規則になるはずだ。
「おい…フレイ?」
ノックを何度かしてみたが返事がない。普段はイザーク、やめて、まだ入らないで、等元気に答える声がかえってくるはずなのだが水の音以外、何も聞こえない。
「入るぞ」
天窓を大きく広げたバスルームは湯気が充満し始めていた。ロンドンを覆う霧よりも濃い白い靄に包まれてあり、床に横たわる人影にイザークは迷わず駆け寄った。
「…なっ」
桜色に火照る裸体を抱きかかえるとイザークはタオルを掴んだ。薄く開いた唇はツヤツヤと輝いているのだが、半分閉ざされた瞼にイザークは焦りと緊張で鼓動が激しくなっていく。
「…フレイ?…おいっ…おいっ…」
ペチペチ、と頬を叩くと頭の重みでグラッとイザークの腕が揺れ紅い睫が小刻みに震えた。
「…イ…ザ……」
「おいっ…」
口から漏れた自分の名前にホッとするのも束の間。眉が少しだけ動き濡れた紅い髪が貼りついた頬の筋肉から緊張感が失せ、ピクリとも動かなくなったフレイを両腕に抱きしめながらイザークはショーツに視線をやると少し滲んだ血液の鮮やかな朱色に眼を見張り彼は素早く立ち上がった。
「おまっ…ちくしょっ……な、何なんだよっ」
まずは身体を拭いた後フレイにネグリジェを着せ、ベッドに運ぶ事が先決だ。シャワーの水音をそのままにし、イザークは湯気に包まれていた柔らかい裸体の上にタオルを載せると両腕で抱きかかえた。二人の寝室はバスルームドアを隔てたドアの向こう側にあった。水滴がポタポタと絨毯に染みこんでいく。柔らかな照明が灯された薄暗い寝室はいつもより広く見えた。天窓から差し込む月明かりと室内の灯が二人の影をぼんやりと映し出したベッドにフレイを横たわらせるとイザークは端末に急いで手を伸ばした。
「…ロバートか」
「はい、いかがなされました?」
「いや…ホットチョコレートとラム酒を頼む…一人分でいい...ああ、それとバスルームの水を止めてくれ」
「かしこまりました」
機械音が止んだ後イザークはベッドの上にタオルを敷き、フレイの頭を抱え上げる。濡れた紅い髪が白いタオルの上を流れるように広がった。身体を冷まさせないよう、イザークは羽根布団を薄いネグリジェに包まれたフレイの身体を覆いかぶせた。運ばれてきたチョコレートにラム酒を数滴淹れ一口飲み込むとフレイの唇へと流し込む。
「…っ」
甘くピリッと辛いラム酒が舌を撫で、イザークは静かに息を繰り返している相手の唇をこじあけるとコクン、と喉を鳴らしたフレイが微かに動いた。コホッと空咳を数回繰り返したフレイの唇をそっと放し、イザークは瞼にかかっていた紅い前髪を人差し指で掬い上げた。
「ん…わたし…」
重い瞼を持ち上げるとイザークの暖かい腕に優しく揺り起こされ、フレイは素肌を覆うネグリジェが裏返しになっている事に気づき、上体を捻る。グラリ、と視界が再び回り気が遠くなりそうになったフレイをイザークは抱きかかえた。
「…まだ熱いから気をつけろ」
「…イザーク…?」
そっと上体を右腕で支えながら熱いカップを手のひらにあてるイザークを見上げるとフレイは呟いた。
「気を失っていた…貧血か」
「え...」
「少し飲め」
「あ…うん」
眉間に皺を寄せるイザークの表情はいつになく真剣である。酷い貧血でシャワーの水が針のように頭から身体中を刺さってきたところまでの記憶を辿りながらフレイは一口ホットチョコレートラムをすする。チョコレートから立つ甘い湯気を吸い込み、フレイはマグカップを両手で包み込んだ。血液循環を解きほぐす暖かさが喉を流れ、甘辛い味わいが口いっぱい広がった。
「もう寝ろ」
「…ありがと」
ふぅっと息を吹きかけるフレイの肩を支えながらイザークは敷かれていたタオルを取り上げ、紅い髪を擦り始めた。濡れた髪をスッポリとタオルで包みこみ、先ほどから出掛かっていた言葉を口にした。
「明日…病院に行ったほうがいいな」
「え…でもいつもこんなだってイザークも知っているじゃないの」
「顔色の悪さはいつもより酷い。貧血にしては酷すぎるとは思わないのか?」
「でも…」
腰の痛みは先ほどより治まっている 。普段の生理痛より数倍出血がもし止まらなくなり、イザークにも言えないままの状況になっていたら、思うとサーッと血の気が引いてくる。プラントの病院に行くという事自体に恐れを抱いているなどとイザークにはとても言いづらい。今まで病院に行かなくて済んだ自分の健康には自慢であったのだが、プラントの医療施設に行くとなってはどのような治療を施されるのか考えただけでも怖くなる。
飲み干されたマグカップを受け取りナイトテーブルに置くとイザークは右腕で支えていたフレイを横たわらせた。ココナッツミルクの香りと薔薇の香りが交互に漂い、イザークは乾きかけている紅い髪をゆっくりと梳かした。
「いいから行け」
フレイの額に浮かぶ汗粒を拭いながらイザークは厳しい口調で言う。
「予約などなくとも俺の名を出せばいい」
「イザーク…一緒に行って」
イザークの締まった胸板に頬を埋めるフレイの髪を梳かしながら彼は溜息をついた。消え入りそうな声で囁くフレイを抱きしめながら弱気になっているのは普段病気しないからであろう。帰り母に会わずには居られない事を思い出し、イザークは迷う。母のメッセージを明日、フレイに聞かせた方がいいのか。それではまるでポプリと彼女の健康を天秤にかけているような気がしてならない。些細な事で喧嘩をする二人でも、母エザリアとの関係についてに関しては喧嘩を起こさないように極力避けようとする。
「…明日は抜けられそうもない」
「そう…」
「どうしても抜けられない会議…があるが…検査終えた後で連絡入れろ。都合がつけば迎えに行く」
不安げに瞼を閉じるフレイの額に唇を落とすとイザークは羽根布団に包まっていた彼女から差し出された手のひらを握ると耳元で囁いた。
「明日は病院に行け、いいな」
「ん…」
低く囁くイザークの柔らかい声を聴きながらいつの間にか暖まった身体に重いまどろみが襲いかかり、フレイは手を繋いだまま、眠りに落ちた。
静かな寝息をたて始めたフレイから身体を離したイザークは空になったカップにラム酒を注ぎ窓辺にある肘掛け椅子に腰を降ろすと資料をもう一度読み始めた。
高く昇りつめた月が暗い影を寝室に落としていた。
あとがき
第3話担当の夜深です。さてフレイどうしましょう。何かが起こりそうな予感。フレイのシャワーシーンってなかったですね。十分お色気披露したから必要なかったのでしょうか。キャラ一人のシャワーシーンを書くのは難しいですね。遅くなって申し訳ありませんでした。
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